1970年、マンキューソはロフト形式のフロアで知り合いに招待状を送り、音楽をかけてみんなでダンスをするようになった。マンキューソが追い求めていたものは、人々が集まり音楽を媒介にして家族のように楽しめる空間だった。以降、一貫して営利目的を持つようなことはなかった。マンキューソは『チベット死者の書-サイケデリック・バージョン』に基づいて音楽をかけた。
そこは、自然にザ・ロフトと呼ばれることになっていった。ザ・ロフトには、さまざまな階級、さまざまな人種の人々が集まり、アルコールやドラッグはなく有機的な食べ物が用意され朝まで快適にダンスをすることができた。マンキューソはバレンタインデーにあわせて Love Saves the Day (愛は勝つ)というパーティーを開いた[42]。ザ・ロフトでの体験を元にニューヨークには、ザ・ロフト形式のダンスフロアが増えていく[43]。そして、ディスコという文化が大きくなっていった。
ディスコが増えてくると、マンキューソは有名ではないDJもレコード会社から公平に扱われるように、レコード・プールというDJの団体を作った[44]。
マンキューソは川のせせらぎの生命的な音に気づいてから、限りなくライブ感のある音が出るようにサウンドシステムの改善を追及していった[45]。このことは多くのディスコにサウンドシステムの質の向上をもたらした[45]。1970年代には、ディスコがさまざまな国にあふれ流行の最高潮に達したがその後衰退していく。
しかし、ダンスフロアの文化自体は衰えず、1980年にはザ・ロフトに通っていたフランキー・ナックルズがシカゴでウェアハウスという名のクラブハウスをつくり、そこでかかる音楽は次第にハウスミュージックと呼ばれるようになっていった[42]。
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